第40.5章:母を見送れなかった日、そして半年間泣けなかった理由

両親は大阪に住んでいる。父は栃木、母と妹は東京出身で、私だけが大阪出身だ。もっとも、実際に大阪に住んでいたのは幼稚園の途中までにすぎない。だから私たち4人は誰も大阪弁を話せない。

転勤族の父の仕事の関係で、私たち家族はあちこちを転々とした。私が高校生の時、父はアメリカへの転勤が決まった。社宅に住み続けることができなくなり、母と妹は自宅のある大阪に戻った。私は高校3年生だったので、一人暮らしを選んだ。卒業後は数ヶ月だけ、大阪の留学予備校に通った。

そのため、父方も母方も、親戚は全員が東京に住んでいる。両親が病気になった時、親戚がもっと近くにいてくれたらと、何度思ったことだろう。

母の病、繰り返された入退院

母は胆嚢が悪く、ステントを入れる治療を受けていた。しかし体に合わず、仮のステントを入れることになった。仮のステントは長期間、体内に留置しておくことができない。そのため、また体に合わないステントを入れる、という繰り返しになった。

2024年には、8回もの入院と手術を繰り返していた。その手術の際、膵臓がんが見つかった。膵臓がんは発見されにくい病気だが、手術のおかげでステージ1にも満たない段階での発見となった。不幸中の幸いだった。

胆嚢の治療と並行して、化学療法も始まった。幸い髪が抜けることはなかったが、爪は黒ずんでいったという。発見が早かったこと、そして高齢だったこともあり、進行は遅かった。

会いに行けないまま

2023年に私が倒れ、意識不明の8日間を経験したことは、第37.5章:意識不明の8日間、そして記憶の一部を失った話に書いた通りだ。そして2024年には舌がん、2025年には頸椎がんと、私自身の病気が続いた。母に会いに行くことも、次第にできなくなっていった。

私が退院した直後、高熱を出していたその時に、母は突然逝ってしまった。

間に合わなかった知らせ

その日の朝10時、訪問診療の医師と看護師が来ている最中に、母の容体が急変した。救急車で病院に運ばれた際、医師は父に「今夜まで生き延びられるかどうかわかりません」と告げたという。

もしその時、父がすぐに連絡してくれていたら。たとえ意識が戻らなくても、母に会うことはできたはずだった。

しかし母は夕方4時に亡くなった。それにもかかわらず、父から私に連絡があったのは、新幹線も飛行機も最終便が過ぎた、夜10時近くのことだった。病気を押して無理に大阪に帰ってくることを恐れたのだと思う。

さすがに、なぜすぐに教えてくれなかったのかと、父に怒りをぶつけようとした。だが、術後で上手く話せない。それでも、「すぐに電話をくれていれば、間に合ったでしょう」と叫んだ。悲鳴にしか聞こえなかったと思うが、耳の悪い父には私が言わんとすることを感じ取ったようだ。父は「意識が戻らないと聞いていたから」と言った。意識が戻る、戻らないにかかわらず、温もりのある母に会いたかった。私には言いたいことが山ほどあったが、その場では黙るしかなかった。

葬儀に日帰りで

結局、葬儀の準備は父と妹が行い、私は葬儀の当日だけ参列した。主人に支えられながら、やっとの思いで大阪まで行き、日帰りで戻った。翌日、国立がん研センター中央病院の検査が控えていたためだ。

実のところ、大阪へ行く許可自体、ぎりぎりまで下りなかった。医師は、私が高熱を出していたことを懸念し、検査を急ぐ必要があると言った。日帰りがどれだけの負担を体に与えるか、医師も私自身も分かっていた。それでも私は新幹線に乗った。

「親不孝な娘」という言葉

結局、母とは長らく会えないまま、永遠に別れることになった。葬儀の日、初めてエンバーミングを施された母に対面した。私の知っている母はもうそこにはいなかった。どうして連絡をしてくれなかったのだろう。再度、父に対して不満が募った。

父によれば、母は最後の最後まで、私のことを心配していたという。6月中旬に受けた頸椎がんの手術の時には「そばにいてあげるから安心しなさい」と言ってくれた。私は嬉しかったが、数日後に母の手術の立ち会いを断った。後で聞いたことだが、私が断ったことを父も伯母も親戚の人たち全員がほっとしたという。私以外の人は、母の病状を知っていたからだ。

父には、親不孝な娘だと言われた。心外だった。

私は妹よりも成績が良かったし、反抗期もなかった。聞き分けの良い子供だったはずだ。しかし父は言った。親にとって、成績なんてどうでもいい。反抗期があっても、そんなことは問題ではない。子供が健康でいてくれることこそが、親にとっての幸せなのだと。

半年以上、泣けなかった

母が亡くなってから、半年以上、私は泣くことができなかった。理由は、自分でもわからない。ずっと会えなかったからだろうか。危篤状態の時にさえ、そばにいることができなかった。お別れの時間が短すぎた。自分の病気のことでいっぱいいっぱいになっていた私は、母の体調がそれほど悪かったことすら知らされていなかった。夏は暑いから、秋には上京してまた美術館に行こう。そんな計画を立てていたので、その計画が叶わないことなど、想像すらしなかったのだ。

今やっとわかった。やはり私は親不孝な娘だった。それは母だけでなく、父に対しても同じだ。でもまだ間に合う。父には親孝行をしたい。それには、早く元気にならなければならない。

ここで妹の名誉のために付け加えたい。妹の成績は、普通よりは良かったと思う。ただ、年齢が違うので同じ場所で受験をしたことがなく、比較はできない。しかし、地方だが県で一番偏差値の高い高校に入った私と、大阪でそこそこ上位の高校に入った妹との間に、それほどの差はなかったと思う。ただ、妹は滑り止めの高校受験に失敗したり、予想もつかないことをやらかしては両親を心配させていた。家庭教師を拒否して塾しか通わなかったり、受験前でも部活をやめなかったりもした。私が文句を言わずに従ったことに、妹はことごとく反抗していたらしい。

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