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婚活地獄という宇宙で一人放たれて
個人差があると思うが、私にとって結婚相手を見つけることは人生の中で一番困難だった。英語もわからないで渡米し、アメリカの大学を卒業するよりも、NYの日系銀行に就職するよりも、結婚相手を見つける方が何万倍も難しかった。
大学時代は2度ほど、「明日の朝、日本行きの航空券を買おう」と思ったことがあった。しかし、一生結婚できないかもしれないと思ったことは、数えきれない。理想を曲げてまで結婚する必要はないと思ったこともあった。もうこのまま一生一人でもいいと、覚悟を決めたこともあった。まるで宇宙に一人放たれて、どの方向に進めばわからない状況だった時期もある。
選択肢がある方が、実は不幸なのかもしれない
そんな時、インドだったと思うが、両親が決めた相手には逆らえずに結婚しているという話を聞いた。少なくとも選択肢がある私の方がましだと思った。でも、選択肢がない方が実は幸せかもしれないと、思わないでもなかった。そうすれば、このいつ終わるかわからない婚活地獄から抜け出せる。
お見合い結婚が途絶える、最後の代
私の一族は、お見合い結婚ばかりだ。とはいうものの、私が最後の代になった。父方では、私はいとこの中では最年少だった。一方、母方では私は最年長であった。私の次に若いいとこは、5歳も歳が離れている。彼から下のいとこたちは、全員恋愛結婚だ。だから、離婚して再婚したいとこも、国際結婚したいとこもいる。
たった5年なのに、時代は大きく変わった。私は、その端境目にいたのだろう。
結婚式を覚えていない主人
2年前に銀婚式を迎えた私たちは、結婚式を挙げたパレスホテルから招待状をいただき、一泊を過ごした。ゆっくりとフランス料理を楽しみ、そして結婚式の思い出話に花が咲くはずだった。それなのに、驚いたことに主人はあまり結婚式のことを覚えていないと言う。
そういえば、初めて会った日から結婚式まで半年も間をおかず結婚した私も、東京大阪間を新幹線で往復する時には常に爆睡した思い出と、幸せ疲れの記憶で占められている。
一人で任された、ウェディング
結婚式の主役は女性だ。その分、女性が忙しいことも確かだ。しかも私の両親は「お金は出すけど、口は出さない。自分で決めなさい」という主張で、ウェディングドレスの仮縫いやその他の打ち合わせも、一人で行った。まだご在命だった桂由美先生に針を打ってもらったことは、光栄なことだった。
しかし、常に一人でサロンに顔を出す私に、サロンのスタッフたちからは「お母様はお見えにならないのですか」としばしば尋ねられた。私はもう30代の女性が、今更母を連れてくる方が恥ずかしいとの考えがあったが、世間では違ったらしい。
東京大阪間を通うことに疲れた私は、伯父伯母の家に居候をしていた。隣にはいとこ夫婦が住んでいる。ある日、伯母がサロンに一緒に来てくれた。サロンのスタッフもほっとした顔を見せていた。高校生の途中からずっと一人暮らしをしていた私は自分で何でもする癖がついていたようだ。アメリカでは当たり前のことだが、日本ではそうでなかったようだ。一人のいとこのウェディングドレス選びにはフィアンセとその両親、そして当然、彼女の両親も付き添って、数日かけて何軒もウェディングドレスサロンを見に行ったそうだ。新婚旅行から教会のお花のデコレーションまで、多くのことを任されていた私は、それが当たり前だと思っていたが、どうやらその点でも世間とはずれていたらしい。
主人は結婚式のプランにほぼほぼ参加していなかったので、思い出もなくて当たり前だ。それで、結婚後の旅行の話で盛り上がることになった。まさかこの数ヶ月後に次から次へと病に侵されるとは、夢にも思っていなかったし、その一つである舌がんなる病気さえ知らなかった。
65カ国を目指した旅、50カ国で止まった記録
この新婚旅行以外の旅行は、すべてその後、主人が手綱を握ることになる。そして私たちは、65歳までに65カ国旅行するという目標を立てたのだ。ちなみにこれは私だけの目標で、独身時代に一人旅を満喫していた私と彼とはスタート地点からして違う。彼は新婚旅行が数回目の海外旅行だった。しかし、コロナや私の度重なる病気で、クック諸島を最後に私たちの旅の記録は50カ国で止まってしまっている。
だが、私は旅行することを決して諦めてはいない。CPAPを持参で旅行しようと思っている。もちろん、機内でもCPAPをつけるつもりだ。その日が待ち遠しい。
母が一度断った、父との縁談
結婚生活はあっという間だった。辛かったことは、義理の両親と私の母を見送ったことだ。
父と母もお見合い結婚だったが、実は母は一度、父との縁談の話を断っている。どこが嫌だったという理由があったわけではないらしいが、私は大阪に本社がある企業に勤めていることが、その理由ではないだろうかと推測している。
祖父は銀行員だったので、転勤が多かった。そして大阪にも転勤になった。母はその時は高校生だったので、大学生だった伯父二人は東京の家に残り大学に通い、母と叔父だけが祖父母について大阪に引っ越した。しかし、母は1学期間だけ大阪の高校に通ったが、すぐに東京の元の高校の元のクラスに戻ってしまった。母は詳細を語らないが、「合わなかった」とだけ言っていた。
母が逃げ帰った大阪、私が転校を免れた大阪
母ほどの社交的な人でさえ「合わなかった」と言わしめる大阪に、私は少なからず恐怖を抱いていた。「合わなかった」と言い、1ヶ月間しか通わなかった高校時代に、母は仲の良い友人を二人作っていた。私たちは、転勤先から東京の母の実家、そして栃木の父の実家に毎年春、夏、冬休みと3回帰省するうち、2回はその母の大阪の友人のお宅に泊まり、大阪観光や、単に母の友人の子供たちと遊んだ。
母の二人の友人の子供たちは、偶然にも、私と同い年の女の子、妹と同い年の男の子2人と、少しだけ年下の女の子だったので一緒に遊ぶことは楽しかったのだが、私には皆が話す大阪弁が怖かった。怒られているようにも感じたし、キツい言葉遣いになかなか慣れなかった。母が1学期間で東京に逃げ帰った気持ちがわかる。
そして、高校3年の私にも大阪の高校へ転校しなければならないことになったのは、皮肉な話である。しかし、私はマンションを借りての一人暮らしを選んだ。
5男だから結ばれた、両親の縁
では、なぜ母は一度断った父と結婚をしたのだろうか。実は、母の父、つまり祖父が、父のことを非常に気に入っていたからだ。大学時代の成績が良かったことが、その理由だそうだ。また、祖母は大阪には遠すぎて不満はあったらしいが、自分が長男に嫁ぎ、お姑さんに苦労したから、五男である父を、祖父同様に気に入っていた。
「五男」という枕詞がなければ、果たして父と母は結婚していただろうか。
「概ね幸せだった」という父の手紙
昨年母が亡くなり、発話障害のある私と、耳の遠い父は文通をしていた。その父からの手紙の中に、母との64年に及ぶ結婚生活は「概ね幸せだった」と書かれてあった。
私はこの「概ね」って何よ、不要じゃない?と、関係ない主人に噛み付いた。しかし彼は、少しは不満もあったという正直な感想で、誠実な父らしいと言った。
生まれ変わっても、と書きたい手紙
病気続きの私は、主人に見送られることになると、心の中でその準備をしている。父よりも6歳若い母もそのつもりだったから、母が逝去した後は、混乱の極みだった。
そして父は、いまだに立ち直っていない。子供の頃から、父は私にとってスーパーマンだった。その父のスーパーマンの面影は全くなくなってしまった。その深すぎる悲しみはまだ癒えず、自ら介護付きの施設に入るという決断をした。もちろん、私たち娘に迷惑をかけたくないという気持ちもあると思う。でも、やはり寂しいのではないかと思う。今年94歳の父の親しい友人たちは、全員逝ってしまった。
私たちには、子供も甥も姪もいない。墓じまいも、残されたどちらか一方の仕事になる。そのため、私は終活は始めている。
そして彼への手紙には、「あなたと結婚して幸せな人生だった。ありがとう」と認めるつもりだ。「生まれ変わっても一緒になりたい」との追伸も、入れるかもしれない。でも、それだけは勘弁して、と言われそうな気がしてならない。



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