第19章:1980年代NYの日系銀行|東大出身駐在員たちの英語力と、コネ入社の真実

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ニューヨークの日系銀行で働いていた頃、私の周りには実に個性豊かな人たちが集まっていた。今回は、駐在員たちの素顔と英語力、そして「コネ」にまつわる話を正直に書いてみたいと思う。


駐在員の8割は東大出身だった

当時のニューヨーク支店の駐在員を見渡すと、その約8割が東京大学出身者だった。一橋大学出身者も数人いたが、京都大学や大阪大学出身者はほとんどいなかった。

理由はおそらくシンプルだ。関東系の最大手旧財閥グループの銀行だったため、採用の段階から東京の大学出身者が中心になる。地方の名門大学出身者が不利になるのは、今も昔も変わらない構造なのかもしれない。

役職のある人たちは、銀行のサポートでカリフォルニア大学バークレー校などのアメリカの大学院で修士号を取得していた。しかし博士号を持っている人には、ついぞ出会ったことがなかった。


慶応出身者は「帰国子女」が多かった

慶応大学出身者も一人いたが、彼は慶應義塾ニューヨーク学院から東京の慶応大学へ進学した帰国子女だった。慶應義塾ニューヨーク学院とは、卒業すると米国の高校卒業資格が得られると同時に、原則100%が日本の慶應義塾大学へ内部進学できる推薦権を持っている。カリキュラムも国語や日本史などの一部を除き、授業の約8割が英語で行われる高度なバイリンガル教育が実践されている。

当然、英語力は高い。しかしその分、日本語に独特の「抜け」があった。話せるのに書けない—正確に言うと、ビジネス文書が書けないのだ。漢字も苦手で、微妙な間違いが多かった。尊敬語・謙譲語に至っては、破壊的にできなかった。

その代わり、英語には何の問題もない。

ただ、日本の銀行のニューヨーク支店という職場柄、「彼が日本に転勤になる日はないだろう」という噂がまことしやかに流れていた。英語ができる人材はニューヨークに置いておく方が合理的だからだ。

結果として、私たちアシスタントが彼らの日本語文書を添削するという、なんとも不思議な状況が生まれることになった。


たまにいた私立大学出身者の正体

ごくたまに、私立大学出身の駐在員もいた。しかしほとんどの場合、その背景には明確な理由があった。その駐在員たちの父親が、銀行が属していた旧財閥グループの商社や企業の会長・社長だったのだ。

銀行には暗黙のルールがあった。「息子は銀行では採用しないがグループ内の会社で採用する、娘は銀行で採用する」というものだ。私の一年後輩の現地採用者の女性は、父親が日本で同じ銀行に勤めていた。私にとってラッキーだったのは、私を含め入社試験を受けた33人の中にコネを持っている人がいなかったことだ。もしいたら、私なんて吹き飛ばされていただろう。そもそも入社試験自体がなかったと思う。

私はコネを使って入学したことも、就職したこともない—そう信じていた。


コネを使ったことがない私が、実はコネ入園だった

ここで少し、私自身の話をしたい。

私はコネを使って入学も就職もしたことがない。それが密かな誇りだった。ある日、親戚の集まりで「私はコネを使ったことがない」と声高に言ったところ、母からこんな一言が返ってきた。

「あなた、幼稚園に転園した時、コネ入園だったのよ」

一生知りたくなかった真実だった。

大阪は公立の幼稚園が少なく、私は私立の幼稚園を受験しなければならなかった。4歳からピアノを習い、お絵かき教室にも通って、お受験の勉強をして、無事に合格した。ところが入園してから1年半後という中途半端な時期に転園することになり、さすがに残り半年では受け入れてくれる幼稚園がなかった。そこで父がコネを使ったらしい。

ちなみに、もし私が父のコネを使って就職していたら、関西系の有力旧財閥グループの銀行に入っていただろう。あまりにも就職の知識がなかった私には、コネで就職できるとは夢にも思っていなかった。結果として、自力でニューヨークの日系銀行に入ったことになる。


駐在員たちの英語力のリアル

帰国子女と修士号取得者を除けば、駐在員たちの英語はそれほど流暢ではなかった。

しかし彼らは、初日からその流暢でない英語で仕事をしていた。それは当然のことで、英語が話せなくても仕事はしなければならないからだ。

そんな彼らは、時間が経つにつれ、二つのタイプに明確に分かれてきた。

努力するタイプは、コーヒーショップへの5分の道のりでさえ、ウォークマンで英会話の練習をしていた。ウォークマンで英会話を練習していた時代とは随分変わった。今はスマホ一つで世界中のネイティブと話せる時代になった。

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また、文法に拘らずアメリカ人と日常会話をすることを厭わない話好きなタイプは、みるみるうちに英語が上達していった。

楽観的なタイプは「どうにかなるだろう」という姿勢で、英語の勉強に特別な時間を割かなかった。


英語力と仕事力は別物だった

ただし、ここに一つの真実がある。

当時は英語力が上がっても、給与やボーナスが上がるわけではなかった。金銭的なモチベーションがない中で英語を勉強するかどうかは、完全に個人の意識の問題だった。

そして最終的に気づいたのは、英語力と仕事力は、まったくの別物だということだ。

努力する人もしない人も、楽観的な人も悲観的な人も、英語が流暢な人もそうでない人も、仕事ができる人はどんな状況でもできる人だった。英語はあくまでツールに過ぎない。仕事の本質は、英語力とは別のところにある。

これは、30年以上翻訳者として仕事をしてきた今も、変わらない実感だ。


このブログでは、1980〜90年代のニューヨーク銀行員生活のリアルを綴っています。他の記事もぜひご覧ください。

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