2023年6月、私は自宅の寝室で意識不明になり倒れた。
大きな音で、主人が寝室に駆けつけた。その時の私は、床に座り込んだまま、顔中が血まみれだったという。倒れた拍子に目の上を切り、大量の出血があった。床はすでに血だまりになりかけていたそうだ。
私自身の記憶は、「ちょっと体調が悪いから、早めに休むね。おやすみなさい。」と言って寝室に入ったところで途切れている。座っている私は、目は開いて主人を凝視していたものの、何の反応もなかったそうだ。主人はすぐに救急車を呼んだ。
そのままICUで、8日間意識不明の状態が続いた。
両親を呼ぶかどうかの選択
医師は、7対3の割合で命の危険があると告げ、両親を呼び寄せるようにと主人に伝えたという。
しかし、母は当時入院中で、父も退院直後だった。この状態で、大阪にいる両親を東京まで呼び寄せることはできなかった。結局、そばにいてくれたのは主人だけだった。
「何かあればお電話します」と言われていた病院からは、8日間、何の連絡もなかったそうだ。その間、主人は有給休暇を取り、電話を握りしめて待っていたという。無宗教の主人が、ネットで上野にある病気回復にご利益のある神社を見つけ、祈りに行っていたと後から聞いた。それを知った時、私はうれしくて涙が出た。
目覚めた時、そこは病院ではなかった
意識が戻った時、私はせん妄状態にあった。自分が病院に軟禁されていると思い込み、主人と警察が助けに来てくれるのを待ち続けた。さらに、その病院が東京と仙台の間を移動していると信じ込んでいた。毎朝、看護師に「今日の病院は東京か仙台か」と聞いていたそうだ。仙台には何のゆかりもないどころか、訪れたことすらないというのに。
その後、病院内でインフルエンザが流行り、私は転院させられた。これもせん妄の一部だった。実際には、ICUから普通病棟に移されただけだったのだ。転院先は、以前にも入院したことがある、自宅から徒歩10分の大学病院だった。「もう大丈夫だ」と、心の底から安堵した。
スマホを渡された私は、主人にメールを送った。「軟禁から解放された」と。それを受け取った主人は、これから先のことを考えて、むしろ不安になったという。しかし、その頃から、私の記憶は少しずつはっきりとしていった。
徐々に回復していったものの、一部の記憶を失っていた。不思議なことに、直近の記憶ほど失われていた。スマホの履歴を見返しても、どうしても思い出せない人たちがいた。
数名しか覚えていなかった同僚や上司
1ヶ月の入院後、2ヶ月の休暇をもらい、会社に戻った。しかし、同僚のうち数名しか顔を覚えていなかった。
幸い、私は翻訳の仕事が中心で、社外秘の書類も扱っていたため、他の社員とは隔離された席にいた。もともと社交的でもなかった。ランチも自席で取っていたため、同じ部署以外との交流もほとんどなかった。
さらに、所属していた部署はサステナビリティ関連で、ちょうど注目を集めていた分野だった。入社時にはわずか6名だった部署が、私が戻った頃には12人に増えていた。知らない顔ぶれが多かったおかげで、記憶の一部を失っていることは、誰にも気づかれずに済んだ。
そしてこの後、2024年には舌がん、2025年には頸椎がんと、病気が続くことになる。
もともと実家のある大阪には、幼稚園の途中までしか住んでいなかった。そのため、私自身は大阪の土地勘もなければ、友人もいなかった。一方、元気な頃の母は東京出身ということもあり、1ヶ月に1回の頻度で上京していた。上京しても、私たちの自宅に泊まるわけではない。親友でもある伯父たちの家に滞在していた。そこは、母が結婚するまで暮らしていた家だった。
その家から車で10分ほどのところには、父方と母方、両方の親戚が8組ほど住んでいた。伯父たちの家に親戚が集まるのが、家族の習慣だった。私たちも、両親とはその家で過ごすことが多かった。
しかし父が脳梗塞で倒れ、その後母も病気で入退院を繰り返すようになると、上京もままならなくなっていった。



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