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手術から1年9ヶ月、まだ続くリハビリ
舌がんの手術をしてから、1年9ヶ月が経った。2度の夏を経験しても、私はまだリハビリ科に通い、言語聴覚士の先生とリハビリを行っている。
自覚症状がなくても、私はステージIIだった。半分近くの舌を切除した。切除しただけで、再建はしていない。再建すると、舌のうち再建箇所だけの色が肌の色になる。実際にはなかなか話せるようにならなくてイライラした私はなぜ担当医師は再建手術をしてくれなかったのかと恨んだこともあった。しかし、あまり前だが、医学的には正しい選択だった。
揚げ物のパリパリが飲み込めない
嚥下の問題は、まだ少し残っている。他の人は驚くが、固いものだけではなくて、揚げ物、中でもパン粉で揚げる料理や、フランスパンの外側のパリパリしたおいしい箇所が飲み込めない。唾液の分泌量が少なくなっていることも関係しているのかもしれない。
幸い、パン粉で揚げる料理はそれほど好きではない。パンはお米より好きだが、栄養士の先生に調べていただいた結果、私の体質ではパンよりもお米の方が合っているそうだ。それを知ってから、積極的にパンを食べることもなくなった。
診断書に丸をつけられた「回復不能」の文字
やはり困るのは、発話だ。1.6ヶ月経つと、障害年金の手続きをすることになる。それで担当医師に診断書を書いてもらった。そこで私の目を引いたのは、「回復不能」の文字だった。そこには二重丸がつけられていた。
でも、私はまだ諦めていない。ボランティア通訳をなることを目標にしている。そのために、Camblyで言語聴覚士の資格を保有するインストラクター2人と、週に2回セッションを行っている。アメリカの言語聴覚士は大学卒業後にさらに2年間の大学院で修士課程を受講しなければならない。日本の4年間よりも長い勉強期間にも関わらず人手が余っているそうだ。現実はうまくいかない。
ポキンと折れた自信の音
日常生活では、家族や医療関係者との会話に困ることはない。しかし、1ヶ月前に短期で翻訳専任の仕事に就いた時には、聞き返される人も一人や二人ではなく、またその回数も少なくなかった。芽生えかけてきた自信が、ポキンと折れる音が聞こえた。
なるべく会話を短めにすることを心がけた。また、金融機関だったので、「1」と「7」が間違いやすいことをわかっていたので、「しち」と言わず「なな」と言う、などと工夫を凝らした。
誕生日にも受付番号にも紛れ込む「7」
実はこの「1」と「7」の問題は、病院の予約を取る時、特に固定電話ではなく、スマホを使う時によく間違われていた。誕生日にも、病院の受付番号にも、不幸にも「7」という数字が入っている。ラッキーセブンの7なのに、以前のように嬉しくはない。
以前はどこに行っても、発話障害があることと、頸椎のリンパ節転移の手術後は聴力が落ちたことを説明してから、会話に入っていた。区役所などはボードとペンを用意してくれていたが、一度も使わずに乗り切った。
3度繰り返して伝わった「お手洗い」
その区役所で、一番通じなかったのは「お化粧室はどちらですか?」という一文だった。3度繰り返しても通じないので、「お手洗い」と言い直したら、わかってもらえた。
Camblyではレッスンを録画していて、あとで復習ができるシステムになってる。復習する度に自分の話すスピードの遅さに、絶望する。通訳は、話者の半分のスピードで話さなければいけない。これが、プロの通訳に戻るという希望が絶たれた理由だ。
別にプロでなくてもいい。以前とは異なる話し方でも、発話障害とわからないまでに回復したい。これが、私のバケットリストの一番だ。
放送部で鍛えた声、走らずに済んだ体育祭
余談だが、私は中高と放送部に所属していた。別にアナウンサーを目指していたわけではない。放送部だと体育祭への参加を免除されるので、走るのがダントツに遅かった私は、奥の手を使って徒競走やリレーから逃れていた。その代わりに、放送部の仕事は全力でこなした。
朝の放送などを通じて、私の声を可愛いと言ってくれる男子もいた。教室までわざわざ私の顔を見に来て、がっかりして帰っていった数も、少なくはないと思う。「人生、そんなに甘くないよ。顔も声も可愛い女子なんて、そんなにいないからね」と、思春期の私は毒づいていた。
*この記事は情報提供のみを目的としています。医学的なアドバイスや診断については、専門家にご相談ください。



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