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徐々に回復していったものの、一部の記憶を失っていた。不思議なことに、直近の記憶ほど失われていた。スマホの履歴を見返しても、どうしても思い出せない人たちがいた。内容を読むと、親しかったことは分かる。ただ付き合いは長くなく、ここ数年以内に知り合ったようだった。
その後、何度もその「仲良くなりかけていた」数人から「食事に行こう」と誘われて、途方に暮れた。忙しいことを理由に断り続けた。すると、いつの間にか連絡が途絶えた。大切な友人になったかもしれないと思うと、悲しくなった。
数名しか覚えていなかった同僚や上司
1ヶ月の入院後、2ヶ月の休暇をもらい、会社に戻った。しかし、同僚のうち数名しか顔を覚えていなかった。
幸い、私は翻訳専任で、社外秘の書類も扱っていたため、他の社員とは隔離された席にいた。それに、もともと社交的でもなかった。ランチも自席で取っていたため、他部署の人たちとの交流もほとんどなかった。飲み会にも、自分の歓迎会の時に参加しただけだった。
さらに、所属していた部署はサステナビリティ関連で、ちょうど注目を集めていた分野だった。入社時にはわずか6名だった部署が、私が戻った頃には12人に増えていた。特に、隔離されていた私の席の周りには誰も使っていない席が3つあったのだが、そこに新しい人たちが座っていた。お互いに知らなくて当然だった。安堵した。そんな知らない顔ぶれが多かったおかげで、記憶の一部を失っていることは、誰にも気づかれずに済んだ。
こうして、記憶の一部がなくても、私は日常を取り戻していった。
虚弱体質だった私、健康オタクな母
丈夫すぎる妹と、心配性の母
私はもともと丈夫な方ではなかった。両親には弱い子供として育てられた。というのも、5歳年下の妹がモンスター級に丈夫だったからである。おたふく風邪、水疱瘡、風疹、誰もがかかる病気にさえかからない妹のことを、母は反対に心配した。近所で風疹にかかった友達がいると、母は妹に「お見舞いに行って移してもらってきなさい」と言っていた。
子供の頃にかかる病気は、大人になってからかかると症状が重くなる、と母は言っていたが、医学的根拠があるわけではないと思う。ただ、母がどこまで本気だったのかは分からない。それでも、病気ばかりしている私のことも、病気に全くかからない妹のことも、母は同じように心配していた。常に心配ばかりしている母を見て、母親になるのは大変だと思った。そのせいではないと思うが、私も妹も、子供を産まない選択をした。ちなみに、妹は幼稚園から高校まで皆勤賞を取り続けた。その後、留学して海外で就職した彼女が、大学や会社でも無遅刻無欠勤だったのかどうかは、誰も知らない。
実は私も「普通」だったのかもしれない
社会に出てから、私は気がついた。私は体の弱い子供ではなかった。普通の子供だった。当たり前のように風邪をひき、当然かかるおたふく風邪などにはかかった。ただ比較対象が妹だったから、両親は私を体の弱い子だと誤解したのだと、つい最近まで思っていた。
しかし、17歳で盲腸にかかって以来、何度も入院や手術を重ねてきた自分を思い返すと、両親は正しかったのかもしれない。ちなみに私は15歳からコンタクトレンズを着用しているが、妹は未だに両目とも視力が1.5ある。やはり彼女はモンスターだった。同時に思う。なんて恵まれているのだろう。なんて幸せなのだろう。
10歳からのプロテイン生活
今でこそコンビニでも買えるプロテインだが、私は10歳の頃からプロテインやサプリメントを摂取させられていた。当時の日本では、プロテインもサプリメントも販売していなかった。ニューヨークに駐在していた伯父、というより伯母から送ってもらっていた。その頃のプロテインは何のフレーバーもなかった。サプリもアメリカサイズで大きかった。それが食事の時に一緒に出される。食べることが大好きだった私も、そのプロテインだけは本当に嫌いだった。
好き嫌いの多かった私が好き嫌いなく食事をできるようになったのは母のおかげだが、プロテインだけは好きにはなれなかった。その後、ミキプルーンやアロエジュースなど、母はさまざまな健康食品をさまざまな経路で入手しては私たちに摂取させた。そのせいか、私は今では冷凍の青汁と山ほどのサプリを飲んでいる。栄養士の先生に1ヶ月分の食事の写真を送って、メニューも考案してもらっている。気がついたら、母以上の健康食品オタクになっていた。
「それは趣味です」と医師に言われた日
食べ物に気をつけて、運動もしていた。といっても、週に1回のパーソナルトレーニングとホットヨガだけだ。健康診断で「運動をしています」と胸を張って医師に伝えたところ、「週に2回だけなら、それは運動をしているとは言えません。単なる趣味です」と言われた。その時の衝撃は忘れられない。医師曰く、毎日運動をして初めて「運動をしている」と言えるそうだ。ウォーキングであっても、毎日続けなければ運動としては認められないらしい。だが、交通の便の良い場所に住んでいる私は、どの職場にも近い。都内に住んでいながら、通勤に30分以上かけることも稀だ。
こんなに気を遣っているのに病気になる私と、暴飲暴食をして運動さえしない健康な人が多くいることを考えると、人生は不公平だと思わずにはいられない。
健康になれるなら、私は何もいらない。本気でそう思う。
この後、2024年には舌がんが見つかることになる(→関連記事:第38章:舌がん宣告と手術|仕事と健康とどちらが大切ですか?)。2025年には、その頸部リンパ節への転移も経験することになった(→関連記事:第40章:転移と再手術|やっと光が見えた矢先に)。いずれも、この時の誤嚥性肺炎とは無関係の、別の病気としてだった。
この後、2024年には舌がんが見つかることになる(→関連記事:【体験談】舌がん宣告から手術へ|舌を失った通訳者に会社が下した契約解除)。2025年には、その頸部リンパ節への転移も経験することになった(→関連記事:第40章:転移と再手術|やっと光が見えた矢先に)。いずれも、この時の誤嚥性肺炎とは無関係の、別の病気としてだった。
※この記事は「第37.5章」3部作の後編です。
第37.5章(前編):あの夜、私は生死の境にいた|意識不明の8日間
第37.5章(中編):スプーンすら持てなかった私が、また歩き出すまで



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