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ICUから、ICU病棟のナースステーションの目の前にある4人部屋に移された。その頃になると、いつもとは違う病院にいることも、ICUにいる患者には家族すら面会が許されていないことも、ようやく理解できるようになっていた。それどころか、ICUの患者は看護師が付き添っていないとそのフロアからも出ていけない、囚われの身だった。
いずれにしろ、私はまだ歩けなかった。でも1日でも1時間でも1分1秒でも早く退院したくて、リハビリを開始してくれるようにお願いした。理学療法士の先生が1日に数回ほど様子を見に来てくれるが、血圧が低すぎてリハビリはできない日が続いた。理学療法士の先生の助けで、ベッドの横に立とうとしても、目の前が白くなり、立っていられなかった。リハビリすら受けられない情けない自分が悔しかった。そんなある日、看護師さんがベッドにいるままの状態で私の髪の毛を洗ってくれた。サッパリして、ますます自宅のお風呂に入りたくなった。
動けない身体とのリハビリ
手すりにつかまりながら
ようやくリハビリができるようになっても、体が思うように動かない。上の階にあるリハビリステーションに行くだけで、全力疾走したかのように息が切れる。リハビリステーションまで辿り着いても少し椅子に座って休まなければいけなかったほどだ。休息後は、まず両手で手すりにつかまりながらゆっくりと足を進めた。歩いている、と表現できるか怪しい速度だ。そしてその距離を少しずつ伸ばしていく。
数日後には自転車漕ぎに挑戦した。でもなかなか漕げない。ペダルが鉛のように重く感じた。作業療法士の先生とはカップを重ねたり、ボールを掴んだり、字を書いたりした。こちらは割とすぐにできるようになった。それだけではなく、100から7ずつ引いていく頭の体操もした。最初はスムーズにいくものの、途中でなんだかわからなくなった。でも計算に弱いのは入院前からだったので、できなくても気にならなかった。今日は何日?何曜日?と聞かれる質問に答えられないのはいつものことだった。昨日と今日と明日の境目がなくなっていた。曜日の感覚も捉えられなかった。火曜日と聞いたのは今日だったのか昨日だったのか、情けなかった。
悲しくなる自分に戸惑う
義理の父や伯父がしていたリハビリを見守っていた頃を思い出した。あの時の私は若かった。あの時の2人と同じようにリハビリが必要になってしまったと思うと、なぜか悲しくなった。リハビリの後はいつも気分が落ち込んでいて、これから先に私に楽しいことが起きることなんてないと思い込んでいた。
渇きとの闘い
砂漠を思い出した日々
私の病名は誤嚥性肺炎。その病気にかかるにはまだかなり若いそうだ。病院に運ばれた時には自分で呼吸するのが困難になっていたため、喉に管を通されて空気を確保した。そんな状況だったので、まだ水を飲ませてもらえる状況ではなかった。常に喉が渇いていた。まるで砂漠にいるように思えた。私はチュニジアのサハラ砂漠やナミビアのナミブ砂漠に行ったことを思い出した。あの時は、お化粧室に頻繁に行けないからと水分を制限していたので、それが苦しかった。
でも同じ苦しみでも、天と地ほど差がある。今思い出すと、実際に訪れた砂漠は同じ水分制限があっても、病院とは違って天国だった。そして病院は地獄の底だった。点滴で水分を吸収しているので心配することはないと説明を受けていたが、ゴクゴクと冷たい水を浴びるほど飲みたかった。自分で歩ければお化粧室に行って、手を洗う洗面台でコッソリと水が飲めるのに、と一人で歩けない自分が恨めしかった。身体が干からびているかのように渇いていると感じた。明日には干物と化しているだろう。
少しずつ戻る水分
数日後、とろみのついた水を少しだけ飲むことを許された。誤嚥しないかどうかの検査である。久しぶりに口を潤すことができて嬉しかった。生き返ったような気持ちになった。それから少しずつ、常温の水を飲ませてもらえるようになった。喉が渇く度にナースコールを押すのは申し訳なかったので、医師にペットボトルの水を差し入れしてもらっていいか聞いてみたが却下された。
食欲という希望
隣のベッドの人
その頃になると食欲も湧いてきた。隣のベッドの人は交通事故の怪我で入院していたのだが、ひどい事故だったらしく、頭や身体中に何十本ものボルトが入っているという。1度だけリハビリに行く時に彼女の姿を見たが、まだ若かった。若くて遊びたい盛りなのに、と思うと、若くない私はもう少し我慢を覚えなければいけないと反省した。彼女の入院は長期になるため、栃木の実家から送られてきた大量のお菓子を好きなだけ食べることを許されていた。看護師との会話が聞こえてくるので、今日はカステラなんだ、と思いながらも、甘い食べ物が好きではない私に羨ましさはなかった。
ただ、食事の時間に配膳車が廊下を通ると、運ばれてくる食事の匂いが強烈に食欲を刺激する。お腹が空いているというより、飢餓状態に近かった。医師が回診する度に、プレーンのヨーグルトなら食べられませんか?と提案してみたがまだ早いと却下された。次の回診の時には10割粥を提案してみた。当然却下。さすがに諦めた。
スプーンすら持てない
ようやく最初に口にしたのは、トロトロのゼリーのような食べ物だった。量も少なくて一口で食べられそうなのに、看護師さんは小さいスプーンで、何回にも分けて私の口に運ぶ。そこでようやく気がついたのだが、スプーンが重くて自分では持てなかった。指にも力が入らず、自分で薬の袋すら破けなかった。でも看護師さんは時間をかけて、自分で薬の袋を切って自分で飲めるようにしましょうと、我慢強く見守ってくれた。
笑えるくらい、手にも指にも力が入らない。リハビリステーションでは字を書けたのに、こんなに薄いフィルムに包まれている薬の袋が破けないなんて、こんなの私じゃない。今まで手術も入院も何回か経験してきた。でもこんな状態になったのは初めてだ。薬なんて誰でも開封できるように設計されている。それなのに、指に力が入らないから切り込みが入っているのにどうにもならない。看護師さんがいてくれたので早々と諦めた。こんな簡単なことができない自分を見せたくなかった。できないことを認めたくなかったのだ。
じゃがいもとの攻防
時間の経過と共に、メニューの数がだんだんと増えていく。しかし、なぜか苦手なジャガイモがメニューに含まれることが多かった。入院中は完食がモットーの私だったが、さすがに毎日のポテト責めに音を上げてしまい、残すようになった。看護師さんはすぐに気がついた。じゃがいもが苦手なんですね、と聞かれた。こんなに空腹なのに好き嫌いをしている自分の我儘を恥じた。
気がついたら2週間以上も入院していることがわかった。じゃがいもは少し残したものの、毎日ほぼ完食の私はどんどん体力をつけていった。何度も入院経験のある私には、食欲がある者は病気を制す、という持論がある。その食欲のおかげで、リハビリもだんだん成果を出すようになっていった。看護師の隣を杖もなしに一人で歩く私を見て、担当の医師が驚いていた。もうそんなに歩けるのですか?と目を丸くしている様子が、私の口元を緩ませた。そのうち走ってみせよう、と新たな野望も抱いた。
退院への執念
差し入れ騒動
入院中、病院からさまざまな物を持ってくるようにと主人に指示があったそうだ。パジャマ、洗面具、化粧品などだ。そこで私は今度は担当医に、カットスイカか千疋屋のゼリーを差し入れしてもらってもいいかと聞いてみた。またしても却下された。
夫が持ってきてくれた物の中で驚いたのが、化粧品が全部ビッグボトルのものばかりだったことだ。化粧水なんて360mlの大きさだ。詰め替え用のスプレーに入れて使っているのを知っているはずだ。パーソナルトレーニングのスタジオやホットヨガや旅行に持っていく小ぶりなケースに入っている化粧品のセットがあるにもかかわらず、なぜ?
それにボディーローションは以前使っていたが、すでに別のメーカーに変えてもう何年も使っていないものだった。東京駅にそのお店はあるのだが、たまたま欠品していたらしく、わざわざ池袋のお店まで行ったそうだ。その他、さまざまな差し入れがあったが、ヘアアイロンとか絶対に不要でしょう、というものも多数含まれていた。ありがたかったが、同時に笑いも涙もとまらなかった。
医師と夫への直談判
もうすぐ退院できますね」——医師にそう言ってもらえた言葉を本気にして、私はひたすら退院することばかり考えていた。総回診の時も、そうでない通常の回診の時も、「お願いですから退院させてください」と医師に頭を下げた。あまりに頻繁に頼む私に、医師は「ご主人から、完全に治るまでは入院させていてくださいと頼まれています」と話してくれた。
なんでそんなことを頼むのだろう、と怒りに駆られて夫に電話して問い詰めた。一体どういうこと?そして早く退院できるようにして欲しいと泣きついた。彼はまた倒れるようなことがあっては大変だから、完全に治るまでは病院にいるようにと私を納得させようとしたが、私は毎日退院させてくれと医師と夫に頼み続けた。リハビリも、理学療法士の先生から今日はここまでにしましょうと言われても、もう少しだけ、もう1回だけと何度も頼んでは体力作りに精を出した。
理学療法士の先生との別れ
そして退院が決まった。医師は渋々という感じで「おめでとうございます」と言いながら、目は笑っていなかった。ごめんなさい、と心の中で謝った。
退院の日の前日、理学療法士の先生が部屋まで来てくれた。「もう二度と病院には戻ってこないでね。もう一生会わないから、永遠のさよならだよ」と言われた。嬉しくて涙が出そうになった私は、わざと茶化して、「私の家はここから徒歩圏内なんですよ、きっと駅とかで会っちゃいますよ」と返した。すると彼は大声で笑って、「病院の外で会うのはOKだよ」と言った。
帰宅、そこにあったもの
変わり果てた部屋
退院の日、タクシーに乗るのも大変だった。よじ登るようにして乗車すると、すぐに横になった。疲れていたが、心は喜びに満ちていた。
タクシーから降りる時に見慣れたマンションを見て、長かったとため息が出た。いつものエレベーターにいつものドア。支えられて玄関から入った時に、いつもの香りと違う匂いに気がついた。そしてリビングの部屋のドアを開けて、あっけにとられた。ソファには洗濯物が山のようになっていて、テーブルの上にはお弁当の空箱やペットボトルが散乱していた。お弁当やペットボトルなんて、我が家のテーブルに並ぶことなどなかった。彼は料理が趣味で、私よりも凝った料理を何日もかけて作るほどの腕前だ。
洗濯機にはまだ洗っていない衣類がパンパンに詰め込まれている。しばらく窓を開けなかったかのような、すえた匂いがした。どの部屋のカーテンも閉め切ったままだ。今日私が退院することがわかっているはずなのに、どうして?先ほどまでの幸福に満ちた気持ちがペシャンコになった。楽しいはずの我が家のはずなのに、なんだか悲しくなって、気持ちがどんどん沈んでいった。一体何があったのだろう。
私の休む場所
私の様子を見て、彼が「掃除をするから、寝室で休んでいて」と言った。一緒に片付けたくても、今の私にはできない。寝室に行くとベッドの上には、私の衣類がここにも山のように積み上がっていた。パジャマやガウン、病院に持っていくものを探したまま、放置していたようだ。彼が全ての衣類を自分のベッドに寄せて、やっと私の休む場所が確保された。まるで空き巣に入られた後のような我が家は、清潔で掃除の行き届いた病院とは大違いだ。なんだか病院に戻りたくなった。
痩せた夫の姿
夜、パジャマに着替える彼の姿を見て息をのんだ。痩せている。ふっくらとしたお腹が見る影もなくしぼんでいる。若くないのでしわしわに見えた。きっとまともな食事をしてこなかったのだろう。目の下も窪んでいる。明らかに眠れなかったのだろう。彼の両親は亡くなっていて、彼は一人っ子だ。私だけが唯一の家族だ。
生死の境を彷徨っていた8日間を、彼はどんな思いで過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。でも、散らかり放題の部屋と痩せ細った体を見て、察するにあまりある。私も15キロほど痩せたが、彼も10キロ近く痩せていた。健康な彼が1ヶ月弱でそれほど痩せるなんて、全部自分のせいだと思うと、悲しくなって大声で泣いた。感謝の気持ちよりも、申し訳ない気持ちの方が大きかった。泣き出した私を見て、どこか痛いのかと彼は心配した。ごめんなさい、と言ったが、その一言だけでは私の気持ちは伝わらない。
こうして、私はようやく自宅での生活に戻った。だが、本当の意味で「元通り」になるまでには、まだもう少し時間がかかることになる。
※この記事は「第37.5章」3部作の中編です。
第37.5章(前編):あの夜、私は生死の境にいた|意識不明の8日間
第37.5章(後編):記憶の一部を失ったままの職場復帰と、健康には気を付けていたはずの私



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