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バイリンガルという武器
マンハッタンの金融界という荒波の中で、当時の私が手にしていた最大の武器。それは「バイリンガルであること」だった。
現地採用の日本人女性たちは、日本語と英語の両方を操れた。だからこそ、現地のアメリカ人女性とは違う給与体系で雇われていた。仕事内容には、日本から赴任したばかりの駐在員の通訳や翻訳も含まれていた。ビジネスを円滑に進めるためのアシスタント業務も、その一つだった。
セクレタリー・デーのバラ
余談だが、当時のアメリカでは「セクレタリー(秘書)」という言葉が、どこか軽んじられている雰囲気があった。古い映画の影響かもしれない。セクレタリーが電話の横でネイルを磨きながら、片手間に応対する姿がよく描かれていたからだ。
だからこそ「セクレタリー・デー」には、上司がわざわざ念を押してくれた。「君たちのことを、単なるセクレタリーだなんて思っていないからね」と。そう言いながら、私たち日本人女性スタッフ一人ひとりに、バラの花を配ってくれたのを覚えている。
バイリンガルだけでは足りない
しかし、バラを手にしながらも、私の心の中には常に静かな危機感があった。「バイリンガルというだけでは、いつか行き詰まるのではないか」と。
周囲を見渡すと、同じポジションでもCPA(米国公認会計士)の資格を持つ同僚がいた。彼らは、より高い給与を得ていた。名門大学を卒業したエリートたちも、ひしめき合っていた。語学はあくまで道具だ。その先に何があるかが問われている。CPAに興味を持った方には、USCPA 米国公認会計士試験 学習法アドバイスが参考になる。
NYU夜間クラスへ
その焦燥感に突き動かされ、私はニューヨーク大学(NYU)の門を叩いた。Accounting(会計学)など、金融の実務に直結する科目を受講した。
平日の夜間や土曜日のクラスには、人種も背景も異なる多様なクラスメートたちが集まっていた。受講生は、経営学や経済学などビジネス関連を専攻していた人ばかりだった。私のような芸術専攻の人間は、一人もいなかった。
銀行に勤めていることを話すと、皆「なぜ?」と聞いてきた。ワーキングビザの都合上、選択肢が金融か商社しかなかったのだと説明すると、「それは大変だね」という反応だった。アメリカ人ではない生徒も何人かいた。しかし、移民や永住権保持者ばかりで、私が抱えているビザの苦労を本当の意味で理解してもらうことは難しかった。
何の興味も接点もない業界で働くことの虚しさを話すと、反論する人もいた。「自分だって、好きで経営を勉強しているわけじゃない。仕事が見つかりやすいし、収入もいいからだ」と。
「好きなことを仕事にできる人なんて、そんなに多くはいない」
そう言われて、少しほっとした自分がいた。とはいえ、もしビザの問題さえなければ、ギャラリーでの仕事を探すという選択肢もあったのではないか。そう考えると、心は複雑なままだった。
仕事との両立は楽ではなかった。それでも私にとっては、自分の専門性を磨き直すための「充実した第2の大学生活」となった。
【シリーズ一覧】この記事は「1980-90年代NY銀行員のリアル」シリーズの一部である。就職・給料・仕事の実態について、他のエピソードもまとめて読んでもらえると嬉しい→https://usa-journey.com/ny-banker-summary/



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