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「あなたの宗教は何?」という挨拶
アメリカに来て驚いたことのひとつが、宗教の話題が日常会話に当たり前のように登場することだった。日本では宗教の話はほとんどしないが、アメリカ人にとっては自己紹介と変わらない感覚らしい。
「あなたの宗教は何?」と聞かれた私は、正直に「仏教だけど、無宗教のようなものです」と答えた。すると相手は首をかしげた。
宗教はアメリカでは日常生活に深く根付いていて、授業を登録する際に記入する書類にも宗教を選択する欄があった。もちろん無宗教という選択肢もある。しかし選択肢として並んでいること自体、日本では考えられない光景だった。
日本人の宗教観を説明すると「無茶苦茶」と言われた
日本人にとって宗教が切実に大事になるのはお墓に入る時くらいだ、と話すと目を丸くされた。
さらに、生後間もない頃や七五三では神社に行き、法事や法要はお寺で行い、結婚式は教会で行うのがトレンドだと説明すると、「それは無茶苦茶だ」とはっきり言われた。日本人からすれば当たり前の光景でも、信仰を人生の軸に置くアメリカ人には到底理解できないらしい。
カトリックとプロテスタントの友人に挟まれて
さらに困ったのは、仲の良い友人たちがカトリックとプロテスタントに分かれていたことだ。問題を起こしたくないので、勉強が忙しいという理由で(これは本当のことだが)教会へのお誘いはたびたび断った。
ふたつの宗派の違いは、日常会話にも顔を出した。マリア様についての話になった時、プロテスタントの友人は「マリア様はキリストの母であり、特別な人だが人間だ」と言った。一方カトリックの友人にとって、マリア様はキリストの母以上の存在だった。同じキリスト教でも、こんなに違うのかと驚いた。
中絶問題について聞かれて困った
カトリックの友人から、日本の中絶事情について聞かれたこともあった。若かった私にはその実態はよくわからず、うまく答えられなかった。
その友人は、赤ちゃんを授かったら、どんな事情であっても、たとえ事件に巻き込まれて父親がわからない状況であっても、絶対に産まなければならないと言った。
「父親がわからずに生まれてきた赤ちゃんは幸せなのかしら」と聞いてみた。すると友人はこう答えた。「どんな状況でも、本当の父親はわかっているわよ。すべての赤ちゃんは神様の子供だから。」
その言葉に、私はしばらく返す言葉が見つからなかった。
日曜礼拝とクリスマスの夜に教会へ
プロテスタントの友人とも、カトリックの友人とも、日曜日の礼拝に、そしてクリスマスの夜にも教会に足を運んだ。
そうした場で、自然と深い話になった。信仰について、人生について、死について。
宗教がある人は強い
そんな経験の中で、ひとつ強く感じたことがある。宗教を持っている人は強い、ということだ。
どんなに逆境に立たされても、「神様がついていてくれるから大丈夫」と真剣に祈る友人たちの姿に、羨ましさを覚えた。
私はどんなに辛い状況でも、神様がついていてくれるから大丈夫だとは思えなかった。自分でどうにかしなければならない、と思っていた。「あなたの辛さが他人を助けている」と言われても、正直なところ理解できなかった。「死んだら天国に行き、ずっと神様のそばにいられる」と言われても、信じることができなかった。天国に行ってきた人の体験談がないのだから。
子供の頃から日曜学校でキリスト教と聖書を学び、なんの迷いもなく信仰を持って生きている友人たちが、心の底から羨ましかった。
日本人とアメリカ人の宗教観の違い
日本では宗教は生活の背景にそっと存在するものだが、アメリカでは信仰は生き方そのものだった。善悪の判断も、人生の選択も、宗教を軸に考える人が多かった。
留学を通じて、宗教についてこれほど深く考えさせられるとは思っていなかった。正解も不正解もない問いを、アメリカ人の友人たちは真剣に生きていた。そしてその真剣さが、どこか眩しかった。



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