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はじめに
1980年代、マンハッタンの日系銀行に現地採用で就職した。当時の給料・福利厚生・残業事情を、できるだけリアルに記録したい。また、「駐在員」との待遇の差についても、包み隠さず綴っていく。
給料:初任給は年俸約3万5千ドル
日系銀行での初任給は年俸制で、約35,000ドルであった。これは1980年代のニューヨークとしては標準的な水準である。さらに、業績が良い年にはボーナスも支給された。
昇給については、同じ部署の日本人女性は一律年間5%と決まっていた。つまり、個人の評価や成果に関わらず、横並びの昇給率だったのである。これはいかにも、日本的な慣習がそのままアメリカに持ち込まれた印象であった。
年俸制だったこともあり、毎月の給与は固定であった。ただし、残業代は別途支給されていたため、働いた分はきちんと収入に反映された。
通勤:トークンを常にポケットに
通勤費は全額自腹であった。現代のようなICカードは存在せず、当時のニューヨーク地下鉄はトークン(専用コイン)で支払う仕組みであった。
改札を通るたびにトークンを1枚投入する。そのため、常に複数枚をコインケースに入れて出勤していた。当時は、定期券という概念自体が存在しなかったのである。
ただし、残業が多い夜は事情が違った。タクシーまたは会社の社用車で帰宅することがほとんどであったからだ。なぜなら、夜のマンハッタンを一人で地下鉄に乗ることは危険だったからである。そのため、会社が手配した車で帰れるのは、率直にありがたかった。
残業:多かったが、残業代はきちんと出た
銀行の仕事は、残業が当たり前の世界であった。夜遅くなることも珍しくなかったが、残業代はきちんと支給された。
これは、アメリカの労働法の恩恵でもある。実際、日本企業にありがちな「サービス残業」という概念はなかった。つまり、働いた時間はすべて賃金に反映されたのである。
福利厚生: 健康保険あり、でも帰国費用は自腹
健康保険は会社が提供していた。アメリカでは医療費が非常に高額なため、これは非常に重要な待遇である。
一方で、日本への帰国費用は完全に自腹であった。体調が悪くても、家族に会いたくても、飛行機代はすべて自分で払う必要があったのだ。
駐在員との待遇の差:天と地ほどの違い
当時、従姉妹の夫が別の日系銀行の駐在員として、同じニューヨークに赴任していた。同じ日系銀行員でありながら、待遇はまさに天と地ほどの差があった。
駐在員に用意されていたものは、以下の通りである。
- 高級住宅地の広い住宅(会社負担)
- 交通費の全額支給
- 家族手当・子供の教育費
- 年1回、会社負担で日本に帰国して健康診断
- 独身の駐在員限定「見合い帰国」制度
特に最後の制度は印象的であった。独身の駐在員のみが特別に日本へ帰国でき、かなりの高確率で結婚を決めて戻ってきたからである。
一方、現地採用の筆者には、住宅も交通費も帰国費用もなかった。同じ職場で働きながら、これほどの差があったのが、1980-90年代の日系銀行の実態であった。
しかし、そんな「お見合い」という日本の伝統的なシステムが、数年後に帰国した私自身を巻き込む巨大な渦になろうとは、この時はまだ知る由もなかった。
親戚から始まった話は、やがて友人の友人へと数珠繋ぎに連なっていった。そのドタバタ劇については、第22.5章:なぜ54人ともお見合いをしたのか で詳しく綴っている。
現地採用の中でも、実は恵まれていた
それでも、同じ職場のアメリカ人現地採用スタッフと比べると、日本人の現地採用はまだ恵まれた環境にあった。
職場には、筆者のような現地採用の日本人女性が10数名いた。しかし、従業員全体で見るとアメリカ人が多数を占めていた。つまり、日系銀行でありながら、実態はアメリカ人が主力の職場だったのである。
まとめ: 現地採用・駐在員・アメリカ人、三層構造の職場
1980年代の日系銀行の待遇をまとめると、以下のような三層構造であった。
| 雇用形態 | 給料 | 住宅 | 帰国費用 | 通勤費 |
|---|---|---|---|---|
| 駐在員 | 高い+手当 | 会社負担 | 会社負担 | 支給 |
| 日本人現地採用 | 年俸制・残業代あり | なし | 自腹 | 自腹 |
| アメリカ人現地採用 | 現地相場 | なし | ― | 自腹 |
給料だけではない。こうした目に見えない待遇の差こそが、当時の日系企業の海外展開の実態を物語っている。
今振り返れば、英語ができることと、仕事ができることは全くの別物だと痛感させられた日々でもあった。実際、英語が流暢でも仕事の成果が伴わない同僚もいた。一方で、片言でも信頼を積み重ねていく人もいた。
ただし、大前提として「相手の言っていることが理解できる」「自分の意見を伝えられる」という最低限の英語力は必要だった。なぜなら、それがなければ、そもそも評価されるかどうかの土俵にすら上がれなかったからである。
もし今、当時の私のように「まず土俵に立つための英語力」を鍛え直したいと思うなら、良い時代になったと思う。なぜなら、オンラインで気軽に始められる環境が、当時よりずっと整っているからだ。
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